イエス様の贖い その5 ―― 神様の愛と贖い [イエス・キリストの贖い]
こんにちは!カズヤです。
今日2つ目の記事です。
なんだか、イエス様の贖いについて、このことを書いておきたくなりました。
「このこと」というのは、贖いについての心に感じる気持ちです。
贖いは、神様とイエス様の愛の塊です。
別の言葉で言えば、御二方の愛の象徴です。
私たちのことをどんなに愛していらっしゃるか、
そして、私たちのことをどれほど大切に思い、
どれほど「決して見捨てない」と思っていらっしゃるか、
御二方のその気持ちを表している象徴なのです。
もし、神様が私たちのことを何の価値もないと思い、
簡単に見捨ててしまっても構わないと思っていらっしゃったとしたら、
贖いは決して存在しませんでした。
もしそうだとすれば、
私たちが悪い道に踏み込んで、神様のもとへ帰れなくなるのも、
人生の苦しみで希望を失ってしまうことも、
神様は何とも思わなかったでしょう。
そうならば、贖いが存在する理由は全くなかったでしょう。
でも、神様は私たちのことを愛しておられ、贖いは存在します。
神様にとって、私たちはとても大切な存在です。
なぜなら、私たちは文字通り、神様の息子や娘で、
神様の目から見て、とても貴い存在だからです。
誰一人、必要のない人はいません。
神様にとって、一人一人が特別な輝きを持った、
とても大切な、いとおしい、特別な価値ある存在です。
神様は、神様に似た私たち一人一人を、
とても愛し、誇りに思っていらっしゃいます。
(実際、私たち人間は、姿形も神様によく似ています。
そして、愛、思いやり、勇気、正義、
そのほか神様に似た特質の芽を、神様から受け継いでいます。
もちろん、今はまだ不完全です。
今は足りないところも、たくさんあるでしょう。
でも、確かにその芽を受け継いでいます。
そして、神様のような人になるという、
無限の可能性を持っているのです。)
ですから、神様の御心にそぐわない行いをして、
神様に似た自分自身を汚すことは、
どれだけ神様を悲しませるでしょうか。
神様は、私たちに、ご自分のもとへ帰ってきてほしいと思っていらっしゃいます。
この世ではいろいろなことを経験します。
素晴らしい経験もありますが、
時には、私たちが神様の子どもとしての自分自身を汚してしまう経験もあります。
それは神様にとって、とても悲しいことです。
悪いことをすると神様のもとへは帰れません。
悪いことをして自分自身を汚してしまうと、神様と一緒に住むことができないのです。
神様にとって私たちが神様のもとへ帰れなくなることは、
どれほど悲しいでしょうか。
愛する子どもを抱きしめて、もう一度ご自分のいらっしゃる天に迎え入れたいと、
神様はどれほど思っているでしょうか。
神様のもとへ帰るとき、私たちはイエス様のように、神様と全く同じような人になります。
そして、神様から冠を授かって、私たちも「神様」になるのです。
神様は私たちに、その特別な恵みを、どれほど与えたいと思っているでしょうか。
考えてみてください。人の特別な価値と可能性を。
神様の深い愛と思いを。
人は、何も知らずにこの世に生まれてきますが、
でもその小さな手の中には、いつか神様のような存在になるという、
特別な可能性を握って生まれてきます。
そして、それは夢とか空想とかではなく、紛れもなく現実のことなのです。
私は知っています。人がどれほど貴いかを。
そして、人には、いつか神様のようになるという、貴い可能性があるということを。
そのような貴い可能性を持った、神様の子どもとしての私たちが、
神様のもとへ帰り、神様とともに天で永遠に住むことができるように、
神様は、イエス様の贖いを備えてくださいました。
私たちが、たとえ、この世で自分自身を汚すことがあったとしても、
悔い改めと、イエス様の教えに従うことを条件に、
イエス様の贖いによって清くされて、
神様と一緒に住むことができるようにです。
神様は私たちに弱さがあるとしても、決して見捨てません。
私たちに、ご自分のもとへ帰ってきてほしいのです。
(しかし、悔い改めない人を神様は救うことができません。
悔い改めない人を救うことは、天の正義に反してしまいます。
ですから、キリストを信じて悔い改めることが、本当に必要なのです。)
贖いは、すべての人に及びます。
私たちが、たとえ道を誤ったとしても、
神様を悲しませる行いをしてしまったとしても、
(それは、時に大きな間違いかもしれないし、
時に、本当に小さな事柄かもしれませんが)
キリストの贖いの恵みによって、
神様のもとへ帰る道を、もう一度歩むことができるのです。
※ ※
そして、私は、こうも感じます。
キリストの贖いは、私たちの弱さをゆるし、
不完全な私たちが完全な神様と同じような人になれるように、
不完全な私たちの弱さを補い、強さに変えてくれるものだと。
人は不完全かもしれません。
けれども、不完全な私たちは、キリストの贖いの恵みによって、
少しずつ完全な人へと変わっていくのです。
私は、イエス様の贖いの恵みに感謝しています。
私が神様やイエス様に似た人になれるのは(御二方に近づいていけるのは)、
イエス様が十字架の上とゲッセマネの園で、貴い血を流してくださったからでした。
イエス様の血の一滴は、私のために流されました。
その血の一滴は、天の父なる神様とイエス・キリストの愛の象徴なのです。
キリストの贖いがあったこと、そして、それはすべての人にとって
特別な意味があるのだということ、
これらのことを、イエス・キリストの御名によって申し上げます。アーメン。
今日2つ目の記事です。
なんだか、イエス様の贖いについて、このことを書いておきたくなりました。
「このこと」というのは、贖いについての心に感じる気持ちです。
贖いは、神様とイエス様の愛の塊です。
別の言葉で言えば、御二方の愛の象徴です。
私たちのことをどんなに愛していらっしゃるか、
そして、私たちのことをどれほど大切に思い、
どれほど「決して見捨てない」と思っていらっしゃるか、
御二方のその気持ちを表している象徴なのです。
もし、神様が私たちのことを何の価値もないと思い、
簡単に見捨ててしまっても構わないと思っていらっしゃったとしたら、
贖いは決して存在しませんでした。
もしそうだとすれば、
私たちが悪い道に踏み込んで、神様のもとへ帰れなくなるのも、
人生の苦しみで希望を失ってしまうことも、
神様は何とも思わなかったでしょう。
そうならば、贖いが存在する理由は全くなかったでしょう。
でも、神様は私たちのことを愛しておられ、贖いは存在します。
神様にとって、私たちはとても大切な存在です。
なぜなら、私たちは文字通り、神様の息子や娘で、
神様の目から見て、とても貴い存在だからです。
誰一人、必要のない人はいません。
神様にとって、一人一人が特別な輝きを持った、
とても大切な、いとおしい、特別な価値ある存在です。
神様は、神様に似た私たち一人一人を、
とても愛し、誇りに思っていらっしゃいます。
(実際、私たち人間は、姿形も神様によく似ています。
そして、愛、思いやり、勇気、正義、
そのほか神様に似た特質の芽を、神様から受け継いでいます。
もちろん、今はまだ不完全です。
今は足りないところも、たくさんあるでしょう。
でも、確かにその芽を受け継いでいます。
そして、神様のような人になるという、
無限の可能性を持っているのです。)
ですから、神様の御心にそぐわない行いをして、
神様に似た自分自身を汚すことは、
どれだけ神様を悲しませるでしょうか。
神様は、私たちに、ご自分のもとへ帰ってきてほしいと思っていらっしゃいます。
この世ではいろいろなことを経験します。
素晴らしい経験もありますが、
時には、私たちが神様の子どもとしての自分自身を汚してしまう経験もあります。
それは神様にとって、とても悲しいことです。
悪いことをすると神様のもとへは帰れません。
悪いことをして自分自身を汚してしまうと、神様と一緒に住むことができないのです。
神様にとって私たちが神様のもとへ帰れなくなることは、
どれほど悲しいでしょうか。
愛する子どもを抱きしめて、もう一度ご自分のいらっしゃる天に迎え入れたいと、
神様はどれほど思っているでしょうか。
神様のもとへ帰るとき、私たちはイエス様のように、神様と全く同じような人になります。
そして、神様から冠を授かって、私たちも「神様」になるのです。
神様は私たちに、その特別な恵みを、どれほど与えたいと思っているでしょうか。
考えてみてください。人の特別な価値と可能性を。
神様の深い愛と思いを。
人は、何も知らずにこの世に生まれてきますが、
でもその小さな手の中には、いつか神様のような存在になるという、
特別な可能性を握って生まれてきます。
そして、それは夢とか空想とかではなく、紛れもなく現実のことなのです。
私は知っています。人がどれほど貴いかを。
そして、人には、いつか神様のようになるという、貴い可能性があるということを。
そのような貴い可能性を持った、神様の子どもとしての私たちが、
神様のもとへ帰り、神様とともに天で永遠に住むことができるように、
神様は、イエス様の贖いを備えてくださいました。
私たちが、たとえ、この世で自分自身を汚すことがあったとしても、
悔い改めと、イエス様の教えに従うことを条件に、
イエス様の贖いによって清くされて、
神様と一緒に住むことができるようにです。
神様は私たちに弱さがあるとしても、決して見捨てません。
私たちに、ご自分のもとへ帰ってきてほしいのです。
(しかし、悔い改めない人を神様は救うことができません。
悔い改めない人を救うことは、天の正義に反してしまいます。
ですから、キリストを信じて悔い改めることが、本当に必要なのです。)
贖いは、すべての人に及びます。
私たちが、たとえ道を誤ったとしても、
神様を悲しませる行いをしてしまったとしても、
(それは、時に大きな間違いかもしれないし、
時に、本当に小さな事柄かもしれませんが)
キリストの贖いの恵みによって、
神様のもとへ帰る道を、もう一度歩むことができるのです。
※ ※
そして、私は、こうも感じます。
キリストの贖いは、私たちの弱さをゆるし、
不完全な私たちが完全な神様と同じような人になれるように、
不完全な私たちの弱さを補い、強さに変えてくれるものだと。
人は不完全かもしれません。
けれども、不完全な私たちは、キリストの贖いの恵みによって、
少しずつ完全な人へと変わっていくのです。
私は、イエス様の贖いの恵みに感謝しています。
私が神様やイエス様に似た人になれるのは(御二方に近づいていけるのは)、
イエス様が十字架の上とゲッセマネの園で、貴い血を流してくださったからでした。
イエス様の血の一滴は、私のために流されました。
その血の一滴は、天の父なる神様とイエス・キリストの愛の象徴なのです。
キリストの贖いがあったこと、そして、それはすべての人にとって
特別な意味があるのだということ、
これらのことを、イエス・キリストの御名によって申し上げます。アーメン。
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