イエス・キリストの贖い ――自分の能力を超えた力さえ与えてくれるもの―― [イエス・キリストの贖い]
こんにちは。カズヤです。
月曜日の朝から、起きて仕事に行くことが出来なくなっていました。
最近とても仕事が忙しく、遅くまで残業することや終電で帰ることも少なくなかったため、
やはり疲れが溜まっていたのだと思います。
今までは前日に終電で帰ってきた日でも、気が張っていたためか、
たいていは次の日、仕事に行くことができたんですけど・・・。
張り詰めていたものが切れたのか分かりませんが、
仕事に行く気力が湧かなくなってしまったのです。
職場に連絡すると、上司から、
「だから、早く帰れと言ったんだ。もう(体が)限界なんだよ」
と、優しく たしなめられました。
疲れて横になりながら、仕事に行く力と気力を頂けるように神様に祈りました。
私は、キリストの贖いが、人を癒し、人に力を与えるものだということを信じ、知っていました。
ですから、キリストの贖いの特別な力を頂けるように、神様に祈り求めました。
でも、それでも、力が湧かなくて、
「神様、どうして、仕事に行くことができないんでしょうか?」
と、思いました。
それでも、祈り続けました。
そして今日、仕事に行く力が湧かず、胸が苦しくなりながら横になっていたとき、
ある一つの思いが心の中に浮かんできました。
その思いとは、イエス・キリストが私のために
御自身の全てを贖いによって捧げてくださったので、
私も自分の全てをキリストに捧げる必要があるのだ、ということでした。
約2000年前に、イエス様はゲッセマネの園と十字架の上で、
身と霊に及ぶ激しい苦痛と苦悩をもって、私たち人類のために贖いを成し遂げてくださいました。
イエス様は、そのときに、私たちの犯す罪と、痛みと病と弱さと、
私たちがこの世で経験する全ての苦しみを、一身に背負ってくださったのです。
イエス様は、御自身の全てを私のために捧げてくださいました。
ですから、私も自分の全てをイエス様に捧げる必要があるのです。
(本当の意味での最終的な救いというのは、
ただ信仰を告白するだけで得られるものではないと、私は信じています。
そうではなく、本当の意味での最終的な救いというのは、
自分の捧げることのできる全てをイエス様に捧げ、
自分に与えられた務めを果たし、イエス様のような人になろうと懸命に努力した後で、初めて、
神様から恵みとして与えられるものなのです。
「贖い」は英語のつづりで"atonement"と書きます。
"at-one"とは、神様との「和解」を意味しますが、「一つになる」という意味でもあります。
それには、「キリストと一つになる」という意味があるのです。
イエス様の捧げてくださった全てと、私たちの捧げる全てとの両方が合わさり、一つとなったとき、
イエス様の贖いは本当の意味で私たちに力を与え、救いを与えてくれるのだと、
私は信じています。
聖典の言葉を用いて言うなら、「わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に、
神の恵みによって救われる」のです。)
さて、私が横になりながら、キリストに自分の全てを捧げる必要があることを思ったとき、
私は心の力を再び取り戻し、起き上がることが出来ました。
再び自分の務めを果たす力を与えて頂いたのです。
今、仕事で、東北の復興にかかわる大切な仕事をしています。
自分の出来るところまで、(そして、また、自分の能力の限界を超えて)
この仕事を成し遂げる必要があります。
自分の出来るところまで、自分の全てを捧げて頑張るならば、自分の能力と力を超えた力さえ、
イエス様の贖いは与えてくれるのです。
「わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に、神の恵みによって救われる」
(『モルモン書』ニーファイ第二書 25章23節)
さあ、また明日から!!
自分の能力の全てを尽くし、自分の行える全てのことを行って、頑張りましょう!!!
私は末日聖徒であることに喜びを感じ、また、キリストの弟子であることを誇りに感じます。
キリストの贖いは、これまで、私を本当に幸せにし、自分の能力を超えた力さえ私に与えてくれました。
そして、これからも、私がキリストに忠実であろうとする限り、力を与えてくれるでしょう。
私は、イエス・キリストが確かに生きていらっしゃって、
私の救い主、贖い主だということを知っています。
キリストの贖いは、確かに私たち一人一人のためにあるのです。
末日聖徒イエス・キリスト教会は、神様とイエス・キリストが回復してくださった、
真実のイエス・キリストの教会です。
そのことを心から、イエス・キリストの御名によって申し上げます。アーメン。
<訂正来歴>2012.4.13 一部表現の見直しにより訂正
月曜日の朝から、起きて仕事に行くことが出来なくなっていました。
最近とても仕事が忙しく、遅くまで残業することや終電で帰ることも少なくなかったため、
やはり疲れが溜まっていたのだと思います。
今までは前日に終電で帰ってきた日でも、気が張っていたためか、
たいていは次の日、仕事に行くことができたんですけど・・・。
張り詰めていたものが切れたのか分かりませんが、
仕事に行く気力が湧かなくなってしまったのです。
職場に連絡すると、上司から、
「だから、早く帰れと言ったんだ。もう(体が)限界なんだよ」
と、優しく たしなめられました。
疲れて横になりながら、仕事に行く力と気力を頂けるように神様に祈りました。
私は、キリストの贖いが、人を癒し、人に力を与えるものだということを信じ、知っていました。
ですから、キリストの贖いの特別な力を頂けるように、神様に祈り求めました。
でも、それでも、力が湧かなくて、
「神様、どうして、仕事に行くことができないんでしょうか?」
と、思いました。
それでも、祈り続けました。
そして今日、仕事に行く力が湧かず、胸が苦しくなりながら横になっていたとき、
ある一つの思いが心の中に浮かんできました。
その思いとは、イエス・キリストが私のために
御自身の全てを贖いによって捧げてくださったので、
私も自分の全てをキリストに捧げる必要があるのだ、ということでした。
約2000年前に、イエス様はゲッセマネの園と十字架の上で、
身と霊に及ぶ激しい苦痛と苦悩をもって、私たち人類のために贖いを成し遂げてくださいました。
イエス様は、そのときに、私たちの犯す罪と、痛みと病と弱さと、
私たちがこの世で経験する全ての苦しみを、一身に背負ってくださったのです。
イエス様は、御自身の全てを私のために捧げてくださいました。
ですから、私も自分の全てをイエス様に捧げる必要があるのです。
(本当の意味での最終的な救いというのは、
ただ信仰を告白するだけで得られるものではないと、私は信じています。
そうではなく、本当の意味での最終的な救いというのは、
自分の捧げることのできる全てをイエス様に捧げ、
自分に与えられた務めを果たし、イエス様のような人になろうと懸命に努力した後で、初めて、
神様から恵みとして与えられるものなのです。
「贖い」は英語のつづりで"atonement"と書きます。
"at-one"とは、神様との「和解」を意味しますが、「一つになる」という意味でもあります。
それには、「キリストと一つになる」という意味があるのです。
イエス様の捧げてくださった全てと、私たちの捧げる全てとの両方が合わさり、一つとなったとき、
イエス様の贖いは本当の意味で私たちに力を与え、救いを与えてくれるのだと、
私は信じています。
聖典の言葉を用いて言うなら、「わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に、
神の恵みによって救われる」のです。)
さて、私が横になりながら、キリストに自分の全てを捧げる必要があることを思ったとき、
私は心の力を再び取り戻し、起き上がることが出来ました。
再び自分の務めを果たす力を与えて頂いたのです。
今、仕事で、東北の復興にかかわる大切な仕事をしています。
自分の出来るところまで、(そして、また、自分の能力の限界を超えて)
この仕事を成し遂げる必要があります。
自分の出来るところまで、自分の全てを捧げて頑張るならば、自分の能力と力を超えた力さえ、
イエス様の贖いは与えてくれるのです。
「わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に、神の恵みによって救われる」
(『モルモン書』ニーファイ第二書 25章23節)
さあ、また明日から!!
自分の能力の全てを尽くし、自分の行える全てのことを行って、頑張りましょう!!!
私は末日聖徒であることに喜びを感じ、また、キリストの弟子であることを誇りに感じます。
キリストの贖いは、これまで、私を本当に幸せにし、自分の能力を超えた力さえ私に与えてくれました。
そして、これからも、私がキリストに忠実であろうとする限り、力を与えてくれるでしょう。
私は、イエス・キリストが確かに生きていらっしゃって、
私の救い主、贖い主だということを知っています。
キリストの贖いは、確かに私たち一人一人のためにあるのです。
末日聖徒イエス・キリスト教会は、神様とイエス・キリストが回復してくださった、
真実のイエス・キリストの教会です。
そのことを心から、イエス・キリストの御名によって申し上げます。アーメン。
<訂正来歴>2012.4.13 一部表現の見直しにより訂正
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